◇長  日(一話) 本ハマグリの海

◇話し手: 木更津市金田海岸〜重城真司・美智子ご夫妻
◇略 歴:海苔養殖を夫婦で営みながら地元佃煮製造に35年携わる
◇生まれ:重城真司さん大正13年生 / 美智子さん昭和2年生

2003年2月12日ヒアリング

■今回は最初と言う事もあり、私の地元の木更津金田にて佃煮製造に携わってきた重城さんご夫妻にお話を聞きました。
美智子さんは私の父の姉にあたります。
そうなんです。私の叔父さんと叔母さんにインタビューの練習と言う事で付き合ってもらいました。
おじさんは地元佃煮製造業に従事して35年の経験を持ちます。
それとともに、冬場は昭和24年から約30年余り海苔養殖を営み、夏場はハマグリ・アサリ漁、稲作を行う半農半漁です。
この地のほとんどの家は、夏場の田圃の管理、冬場の海苔養殖と半農半漁です。

1回目は【ハマグリの海】と題しました。
約45年前までは東京湾と言えば、本ハマグリの採貝が盛んだったからです。
今では木更津と言えばアサリが有名ですが、本来はハマグリの海でした。

千葉の潮干狩り場に行くと’黄金のハマグリ’獲ったら海苔をプレゼント!というのが有りますが、現在潮干狩場に生息するハマグリのほとんどが海外から輸入したハマグリ(シナハマグリ)を海に撒いているものです。
当時ここの海で獲れたハマグリは、天然の本ハマグリ(ニホンハマグリ)でした。
冬場は海苔の養殖をやり、夏場はその手伝いをおじいちゃんはしていました。江戸前の味を作ってきた方です。
その他には、うなぎの延縄漁ウナと呼ばれるボラ網漁の話も聞いたので記しておきます。
「昔は商売はいっぱいあったよ!」「1年中忙しくて、釣なんかしていたら怒られたな・・」「海にはお金が転がっているから」と当時を振り返っていただきました。


今でも小櫃川河口付近ではハマグリがまれにですが捕れます。はたして本ハマグリか?

■本ハマグリ
ハマグリ漁は主に(ふっかぎ)(離し撒き)と呼ばれる採貝方法でした。
ふっかぎとは今潮干狩りと同じ方法です。
離し撒きは今でのこの方法はお年寄り中心に行われています。
当時は地元佃煮屋が金田の海に養貝場を海苔柵の沖に保有していました。
現在は組合がアサリの養貝場を管理していますが、当時の力の構図なのでしょうか?
そこの場所にはハマグリの稚貝が撒かれて育てられていました。
安定した商品供給を考えたら当時は冷凍保存、輸送が発達していない事を考えると一番の方法だったのだと思います。

叔父さんは佃煮屋の身内で長年この仕事を従事していました。
ハマグリが一番獲れた場所は小櫃川河口に一番近い場所だったそうです。
大きく育つと漁師は競ってハマグリを水揚げしていました。
水揚げされたハマグリのほとんどがこの佃煮屋へと集まりました。
佃煮屋では、近所の奥さん達がハマグリを剥き(むき)に手伝いに集まり活気に満ちていました。

地元でハマグリが獲れない時は遠く浦安から船で運んできたそうです。
近いところでは隣の牛込から運ばれてきました。
「朝潮時はいいけど、晩潮のときは夜中からハシゲルんだよ!」
当時は船の航路(澪)が無く、沖合いから多くのハマグリを陸地へと運ぶ作業はかなりの重労働だったそうです。

昭和30年代になり高度成長期となり多くの干潟が埋められて工場が建ち並びます。
そこから出る工業排水が海を汚しました。
そこに生息する本ハマグリは環境の変化に着いて行けず年々水揚げが無くなっていきました。
現在ではこの浜の本ハマグリは絶滅状態となっています。
豊かな海の象徴だった本ハマグリは消え、現在のアサリの水揚げへと変わって行ったのです。
当然ハマグリの佃煮からアサリの佃煮へと変わって行きました。


離し撒き

■スナメリ
木更津の盤州干潟にはイルカ科のスナメリが多く泳いでいました。
しかも干潟の浅瀬で、船に近寄って来ていたそうです。
現在のような港・船溜まりは無くある程度の沖合いに船を係留してありました。
子供達は係留してある船まで泳いで行き船の上で遊んでいました。下を見るとスナメリの群れが泳いできたそうです。
私の子供の頃の記憶では、海岸にスナメリが丘に上がっていて臭かった記憶があります。
しかし、この干潟に多くのスナメリが泳ぎ回っていたとは・・びっくりです。
現在のイルカウォッチング状態だったとは・・想像できませんね・・・
昭和30年代から徐々に数が減り、今では浅瀬でスナメリを見る事はありません。

■ウナギナ(ウナギの延縄漁)
雨風で海が荒れた翌日は海が濁ります。
そのような状態になると一斉にこの漁が始まったそうです。
桶に針の付いた糸を撒き、船から流してウナギを釣る方法です。
餌はミミズだったそうです。
江戸前の代名詞ウナギ漁も行われていたんですね・・・

■ウナ(ボラ網漁)
小さなウナ舟2艘に100m位のロープにヒョウギ(杉で作った物)をぶら下げて魚を追います。
高下駄を履いて網で待っている仕掛けに追い込む漁法だそうです。
網にボラ(イナ)・スズキが追い追い込まれ網の上に魚が泳いでくると、網をすくいます。
網の中で魚が飛び跳ねる姿は今でも思い出すそうです。
遠浅の干潟ならではの高下駄を履いた漁法なのでしょうね・・・


うな

■澪
現在は干潟には船の航路(澪)が掘られます。
当時干潟の宿命で遠浅の海では干潮時には舟は沖に出られませんでした。
「昔は潮時が知らねえ漁師は誰も居なかったよ!」
澪が無い時代は干潮時には船の出入りが出来ませんでした。漁師には1番必要な知識でした。
風で逃げてくるのが大変だったそうです。

 
写真左・・・現在の盤州干潟風景です。アクアラインを除けば昔と変わらない広大な干潟は健在です。
写真右・・・河口干潟付近に何十年前に放置された木造伝馬船です。

■「海にはお金が転がっているから」は当時を知る人たちの口癖のようなものでした。
家に居るより浜に出れば何らかの収入を得る事が出来たのです。
しかし、現在は死語になりました。豊かだった海の象徴のような言葉です。
ハマグリ、スナメリ、アオギスの脚立釣り・・・東京湾のターニングポイントはやはり昭和30年代でした。

■後記
いや〜やはり文章にするのは大変な作業です。
忠実に聞いた言葉を再現すると、すべて方言で文章になりません。
もっと昔の風景が浮かぶように文章にしていかない事には「教え」など見えてくるはずも無く・・・
今後の課題はかなり大きいと感じました。


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